随筆 ぬるいジュースとやばいバス ペルー・パウカルタンボ

何度か、中南米でもだいぶ田舎の町や村にマジックショーをしに行った。
ストリートパフォーマンスだけでなく、劇場やディスコなど会場を借りてショーをしたのは楽しい経験だった。
どこの国もマジックショーは珍しく、特に田舎では娯楽の提供自体が喜ばれる。その上観光客も来ないような場所に日本人が来たということで歓迎されることが多かった。5、6年か、もっと前だろうか、ペルーのクスコ州(地方?)のパウカルタンボ(Paucartambo)という田舎の村にショーをしに行ったときのこと。
昼間に着き暑いので冷たい飲み物を探したが、店に入っても水も炭酸飲料も常温しか置いていない。もちろん自販機などなく、ここの村人は自販機そのものを知らないだろう。
ここの祭りは有名でその時期はそこそこ観光客が来るが、住人はほとんどがインディオでまだ素朴で古風な生活を守っている。
店員に「冷たいものをくれ」と言ったら「お腹に悪いから売っていない」と真顔で言う。
冷蔵庫はあるが肉やチーズ、野菜が入っているだけで、三軒くらい回ってもありつけなかった。
次の店に行こうとしたら、店員に「この村のどこに行っても売ってないよ」と言われて諦めた。
おかしなことに、アイスクリームは普通に売っていてみんなバクバク食べている。
他におかしな習慣といえば、クスコなど比較的諸外国の文化に接しているエリアでも、インディオはよくコーラやファンタを飲むときにグラスを振って炭酸を抜いてから飲もうとする。
これも体に悪いからだと言う。夜、劇場でショーをすることになっており、ペルー人の芸人にプロデュースを任せていた。

まず村を徘徊してみて、人がいたら今晩観に来てくれと挨拶する。(写真上)
村に一局しかないラジオ局で数日前から宣伝を頼み、当日はスピーカーを積んだバイクタクシーに村中を走りながらアナウンスしてもらった。
ときどき回ってくるそのアナウンスを聞きながら、川沿いの坂にある食堂でセビーチェを食べた。
セビーチェは魚の生肉をにんにくと玉ねぎのスライスなどが入ったたっぷりのレモン汁に漬けたペルー料理。それにカリカリに揚げて塩をまぶしたとうもろこしの粒を添えられる。

因みに、海外で生魚を食べるものは珍しいと思っていたが、やはり日系移民のシェフが創作し広まったものらしい。
日本人の旅行者が、レモンの味ばっかりになり魚がもったいないと言っているのを何度が聞いたが、おそらく醤油ややわさびを使わず、なるべく安全に生魚を食べる知恵だろう。
これにならって中南米で自分で刺身を作るときはいつもたっぷりのレモン酢を掛けて食べた。

食堂であれこれ話しているとマスターが今晩劇場に行けないのでここで見せてくれと言う。
じゃぁ、とご飯とマジックのトレードが成立し、食べた後いくつか披露するとそこで働いていた家族みんなで大喜びしてくれた。

開演時間になると満員御礼で二階席までいっぱいになり、子どもはステージ上の両脇にまで座らせて、それでも会場に入り切れず諦めてもらった人たちも大勢いた。
地元の警官を3人ほど警備に雇うと制服に銃携帯で来てくれた。
中南米では警官のバイトが許されている。
この村はそれほど野蛮な感じではないが、何かのトラブルで怒らせたり、観客同士の喧嘩が起きたら収拾が付かない事態にもなり得る。
ハサミを持って踊ったり力技を見せる地元の芸人が先に入り、その後マジックショーをやった。
大いに盛り上がりアンコールにも応え、予定時間を過ぎてショーが終わった。
片付けを終えた後、もう一人の芸人と一軒だけ開いていた質素な食堂に入り、確かこの頃はあまり肉を食べなかったが、アサドというチキンのスパイス焼きしかなかったのでそれを頼んだでささやかな打ち上げをした。
食べ終わって劇場の売り上げの勘定をして、分け前を受け取った。
わりと稼げた。
川辺のホテルに帰り水の音を聞きながら寝た。

翌日昼頃だったか当時住んでいたクスコに帰ろうとバスに乗った。
ここは乗合で座席がすべて埋まったら出発するので、乗客は坂道に停めたバスの中で残り数席が埋まるのを待っていた。
運転手は乗っていない。
『ん?』と違和感を感じると隣の女の子が
「バスが動き出した!」
と叫んだ。
運転手のいないバスが後ろ向きに勝手に勾配を下りだした。
ジワーと動き出して少しづつ加速している。後ろを見ると道にいた人たちも騒ぎ出し逃げだした。道に面して左側に崖があり下に川が流れてて、フェンスがあったが勢いが付くとどうなるか分からない。
乗客がキャアキャア喚きだす。自分は後ろの方の席だったが、とにかく運転席の方に駆け寄ろうとしたときにバスがゴミを入れるドラム缶にぶち当たり、倒れたそれが地面と車体で挟まるようにして止まった。
動いた距離は20メーターもなかったんだろうか、まだそれほど加速してなかったのでそれで済んだ。
運転手が乗ってきて謝りもせず「大丈夫、なんでもない」と平気な顔で言うので「こっちは殺され掛けたんだぞ」と怒鳴り上げたが、まだ「大丈夫だから座れ」と言う。
中南米ではこういうときにまず謝ろうという奴はほどんどいない。
それがいっそうこっちの怒りを掻き立てる。

何度も何度も壊れた箇所を継ぎ足して床もブリキの隅が浮いてガタガタいってるような何十年物の車体で、終いには直しようがなかったんだろう、サイドブレーキ自体が取り外してあった。
それを坂道にギアも入れずに片方の前輪の下にそこら辺のこぶし大の石を置いて止めていただけだった。
「ブレーキがないバスに乗るか、ボケ!」
と自分とアシスタントはバスから降りたが、他のインディオたちは誰一人文句も言わずそのまま乗っていた。
何度も経験したが中南米は人の命が軽い。

啖呵を切ったのはいいが、結局その日はそれ以外にクスコに行くバスはないというのでもう一泊するはめになった。
夕方、何もしないのももったいないので前日にショーをした劇場のちょうど前にある公園で大道マジックをすることにした。
今回もバイクタクシーに宣伝を頼むと、日が暮れる頃から村人がぞくぞく集まってきた。

ショーを始めると拍手と笑いが溢れ絶えず盛り上がっていたが、途中で警察署長(所長?)が数人若い部下を引き連れてきて中断した。
公園にも人が入りきらなくなり通り道も塞ぎ、植え込みにまで上がって見ていたので「許可も取らずに何やってるんだ?」ということだった。
中南米で、特に田舎の村社会で警察を怒らせたらどんな目に合うか分からない。
「お騒がせしてすみません」と謝って、「実は昨日劇場で手品をしたんですが・・」と急遽もう一泊することになった経緯を説明した。
とボスは意外と物分りがよく「OK、事情は分かった。」と言い、「実は俺も子どもの誕生日なんかでピエロをやるんだ」と言った。
「アーチスト仲間なんですね、道理でエンターテイメントに理解がある」
と愛想よくすると「そこを曲がったところに署があるから、次は俺のところに顔を出せよ」と立ち去りながら「マジックも習いたいしな」と付け加えた。
「もちろんです、セニョール!」とショーを続行。
がっぽりと稼いで、翌日ボロいけどブレーキの付いたバスでクスコに帰った。

補足 最近『インディオ』という呼称が差別的だとして『インディヘナ』と呼ぶようにという動きがあるが、本人たちと話すとだいたい、「言い方しだいだ」とか、「俺はインディオだ」、「インディオもインディヘナも同じだ」という答えが返ってくることが多い。

下の写真はWikipediaからのリンク

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